KIWA極めるほど、際へゆく。

連載 裾光 裾光 002 ── 富士宮・聖地の物語 ── 2026-08-03

頂を目指さない富士山の歩き方が、あるのではないか。

視線は山頂に集まる。その麓に、通過されたまま積もっている層がある。

富士宮・聖地の物語のキービジュアル(抽象的な光の情景)

富士山そのものは、端ではない。眺める・登る対象としての富士山は観光の動線の中央にあり、最も多くの人の目に触れる側にいる。

端にあるのは、麓だ。富士宮の街には、湧水が日常の中を流れている。浅間信仰が暮らしの所作に残っている。祭りがあり、食があり、路地があり、職人がいて、日常の祈りがある。観光の動線はこの層を通過しやすい。

「富士山は誰もが知っているのに、富士宮の層はほとんど知られていない」。この落差そのものが、この物語の出発点である。

正直に書く。現地の担い手への取材記録は、まだない。これから歩いて、聞いて、確かめて、それから灯す。この連載は、その過程ごと公開していく。

出典: fujinomiya-sacred-place-project(事業正本。現地取材はこれから——わからないことは、わからないと書く)

WHY EDGE ── なぜ端か

富士山への視線は山頂と登山道に集中する。その視線分布の端——麓の生活文化の層を、少人数の担い手が日々支えている。

見出す暗がりに、目を慣らす。
結ぶ離れた灯を、引き合わせる。
交わる火種を混ぜて、新しい火を焚く。
響かせるその火を、遠くの夜まで運ぶ。

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