連載 裾光 裾光 004 ── おばあちゃんの知恵アーカイブ ── 2026-08-04
四百年の太陽の記録を、なぜ一人の女性の鉛筆が支えているのか。
戦時中の東京で、父に買ってもらった小さな望遠鏡から始まった線が、いま世界の基軸データと呼ばれている。
1944年、春。空襲警報の鳴る東京で、28歳の小山ひさ子は、父に買ってもらった口径36ミリの小さな屈折望遠鏡を太陽に向けた。物資が底をつきかけた戦時下で、望遠鏡が手に入ること自体がまれだった。その望遠鏡は、大戦末期の空襲で焼けた。
それでも、線は途切れなかった。初めて完成させた黒点スケッチを、当時の東亜天文学会会長・山本一清に思い切って郵送すると、返事が届いた。「観測報告有難う、これが黒点です」。この一通に後押しされて、彼女は太陽を記録する人になった。
なぜ端か
小山ひさ子(1916–1997)は、大学の研究室にいたのではない。1930年代に高等女学校を出て、天文への道は独学で歩いた。二十世紀初頭に生まれた女性にとって、科学への道は閉ざされているか、あってもきわめて険しかったと、天文月報の評伝は書いている。観測者の所属という分布で、彼女は端から出発した。
そしてもう一つの端がある。1946年5月から1996年まで、東京の科学博物館に据えられた同じ20センチ屈折望遠鏡で、同じ方法——太陽の像を直径30センチの円として紙に投影し、鉛筆で写しとる——を、50年続けた。生涯のスケッチは1万枚を超える。観測期間は、黒点研究の古典で知られるエドワード・マウンダーよりも長い。同一観測者・同一機材・同一手法の継続という分布で、彼女は世界の端に立った。
凍てつく冬も観測し、汗だくの真夏も観測した本人は、こう冗談を残している。「がまんくらべならさしづめ優等生」。
端の記録が、基軸になった
彼女の記録の価値が世界の中心に届いたのは、後年のことだ。世界データセンターのワーキンググループSILSOが、1610年代から2000年代初頭までの黒点記録——およそ400年分——を再評価・再構築したとき、長期間にわたり安定して質の高い観測だけが選ばれる「基軸観測データ」の一つに、小山の記録が正式に採用された。ガリレオやシュワーベの歴史的観測と並んで、である。
1947年4月には二十世紀最大の黒点群を克明に写しとり、1985年には8,000を超える黒点群のカタログ354ページを自費出版した。黒点の出現緯度を時間で追う「蝶形図」を17年分描いたとき、彼女は「蝶が2羽に満たなくて甚だ不十分」と書いた。最終的に3羽半まで描いた。小惑星3383は、いま Koyama の名を持つ。
本人が残した言葉が、この連載の主題をそのまま言っている。「それでも11年周期が僅か3回くり返しただけで、太陽活動にとってはほんの一コマにすぎない。後輩の人たちの参考資料になるような記録を少しでも多く残しておきたい」。
端は、次の端に灯る
この物語には続きがある。2024年度の日本天文学会天文功労賞は、埼玉県さいたま市の望月悦育さんに贈られた。理由は、64年間の太陽黒点観測。
望月さんは受賞記に書いている。少年時代、上野の科学博物館で毎月開かれていた研究会の例会に通ったこと。そこには博物館スタッフの村山定男と、小山ヒサ子がいたこと。そして——「オリジナルなものは何一つありませんが、出来うるならばアマチュアのものでも後世に残り、これが少しでも何かのお役に立つものならば」。
同じ部屋にいた二人の観測者が、半世紀を隔てて、同じ理由で鉛筆を握り続けた。端の光は、こうして次の端に灯る。
今日できる一歩
太陽は、いまも毎日変わり続けている。見上げることは、誰にでも今日からできる(直接目で見てはいけない——投影法という、小山と同じ方法がある)。まずは科学博物館のデジタル公開された小山スケッチを眺めるところから。あなたの窓から始まる記録が、四百年後の誰かの基軸になる可能性は、ゼロではない。それを、この二人が証明した。
出典: 劉会欣・早川尚志・伊佐純子「小山ひさ子氏:アマチュア天文家から世界的な太陽観測者への道程」天文月報 2019年3月号(112巻3号)/ 望月悦育「太陽黒点観測」天文月報 2026年1月号(119巻1号・2024年度日本天文学会天文功労賞)WHY EDGE ── なぜ端か
観測者の所属分布の端(無所属のアマチュアから出発した女性)×記録の継続分布の端(同一観測者・同一望遠鏡・同一手法で50年)。その二重の端が、1610年代まで遡る国際的黒点記録再構築の「基軸観測データ」になった。